世に棲む日日 一 司馬遼太郎
世に棲む日日 一
だがその生い立ちや人柄となると意外にも知る人が少ないのではないだろうか。
1巻では松陰の生い立ちから2度目のペリー来航までが触れられ、後の松陰の思想の基盤になるエピソードが描かれている。
なかでも印象に残ったのが叔父玉木文之進から受けた徹底したスパルタ教育である。
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ある夏のことである。その日格別に暑く、野は燃えるようであった。
暑い日は松陰は大きな百姓笠をかぶらされた。
中略
暑さで顔じゅうが汗で濡れ、その汗のねばりに蝿がたかってたまらなくかゆかった。松陰はつい手をあげて掻いた。これが文之進の目にとまった。折檻がはじまった。
中略
「それでも侍の子か」
と声をあげるなり松陰をなぐりたおし、起きあがるとまたなぐり、ついに庭の前の崖へむかってつきとばした。
中略
「侍は作るものだ。生まれるものではない」
という意味のことを玉木文之進はたえずいった。
松陰は五歳から十八歳までのあいだ、このような家庭教師から教育をうけた。
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と、現代では考えられない教育法である。
これが藩から脱藩行為と見なされ、松陰は士籍のない浪人として諸国行脚の旅に出ることに。
そこにペリーが来航して、「日本をどけんかせんといかん」となる展開で1巻は終わり。
ちなみに妹・文の登場シーンはこの巻では1度きりだったが、大河ドラマではどんなかたちで描かれるのか興味深いところだ。
余談になるが松陰の鬼コーチ文之進は行政官としては別人のように優しかったという。
吉田という土地に任官した際は庄屋とともに百姓一軒ごとに実態調査に赴き、貧民の声に耳を傾け、ときには共に涙を流した。
また役人の間で賄賂はびこるなか、それを激しく憎み自らは清廉を守りきった。
そうした文之進の行為に庄屋は貧民の救恤を忘れていた自分たちの怠慢を、下僚の役人たちはその貪婪のわるいことを自然と悟ったという。
文之進ら松陰を取り巻く人物像を含め、ゆっくりと読み解いていきたい。
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